故郷の実家周辺紹介


みなと神戸といえば海があって六甲山がある。そして異人館など。
そのくらいのことはみなさん御承知の事だと思います。
でも電車に揺られて10数分でそこにはまた違った景色があります。




実家の近所からの写真。長閑でしょ?

子供の頃乗った♪レロレロ〜という音で走る神有電車(現、神戸電鉄)
現在この1両しかないレトロ車両。

・顕宗仁賢神社・磨崖仏・千年家・

実家の近く、山側にの細い道沿いにこの神社はある。年に一度の村の相撲大会があり、勝った子供たちに溜まった賽銭からいくらか貰ったり。俺は優勝した事もありました。
伝説によれば、二王子が正体を明らかにすると、里人は大急ぎで仮宮を造った。これを「柴垣の宮」と呼ぶ。
この地がその仮の宮殿があった地だとも言われ、この神社の境内には柴垣が編まれている。
この階段、子供の頃は駆け上がったり駆け降りたり平気でしたが、
大人になったいま物凄く急で、しかも足が乗らないほど小さい階段なんです。
柴垣に挟まれた石段をのぼっていくと、拝殿がある。

拝殿前の狛犬は割と新しいものだが、全体に柔らかな曲線で造られており、最近のものに多い鋭角的な狛犬とは明らかに異なる。

拝殿の中には随身像とともに木製の狛犬がいるので、こちらにも注目したい。
木津の磨崖仏 この道は、平清盛が神戸福原に都を置いた頃(1168年)、都から鵯越を経て、三木方面や姫路方面への主要街道になっていました。1184年には、源義経がこの道を通って鵯越に出、一の谷で平家を討ったのは平家物語で有名になっています。  この街道を行き交う人の旅の安全を祈って刻んだのがこの磨崖仏です。  木津フレクシャーと呼ばれている断層の一部の礫岩壁に、縦32cm、横2.2mのくぼみを彫り、中央に阿弥陀如来坐像、左右に三体ずつの地蔵菩薩を浮き彫りにしています。「丁亥 石大工兵衛 文正二天(1467年ー室町中期)」と刻銘が残っており、神戸付近で規模の大きいものでは、この磨崖仏と太山寺の不動明王の磨崖仏の2ヶ所だけです。
シブレ山と山田池
神戸市北区山田町衝原の呑吐(どんど)ダム湖を周遊するサイクリングコース。
箱木千年家
 箱木家はもと当山田庄の地侍で、応永(1394〜1429)頃には宮座の下頭屋(しもとうや)役を勤めていたといわれ、この部落の中心的な家柄であったと思われます。家は山田川流域の下状台地に建ち、破格的に古い形式をもつ家として知られ、早くから「千年家」とよばれていました。  最近この地にダムが建設されて水没することになったため、この家も旧位置から約70m東南の造成地に移築されることとなり、初めて解体調査の機会を得て、多年待望の謎を解くことができました。  その結果、古い方の一棟はおそらくわが国現存最古の民家となると思われますが、一体いつ建てられたのかは類例が多く推定は困難ですが、14世紀頃と思われます。

俺が育った北区と西区の境には古い民家など「農村舞台」がたくさん残されています。  民家では、北区山田町の「箱木家(はこぎけ)住宅」(箱木千年家(はこぎせんねんや) /国重要文化財)が、現存する日本最古の民家として特に有名です。 806年(大同元年)に建てられたと伝えられていますが、 室町時代までには確実に建てられていたことが分かっており、 呑吐(どんど)ダム建設に伴って移築された際に、室町時代の姿に復原されています。  箱木家は中世の末期に三木の別所氏に仕えた地侍(じざむらい)で江戸時代には衝原(つくはら)の庄屋でした。  また、中世に建てられた民家は一般的に千年家(せんねんや)と呼ばれ、昭和の中頃まで、 市内にはいくつかの千年家がありましたが、現在はこの箱木家住宅のみとなっています。  「農村舞台」とは、神社の境内などで地方廻りの役者一座や農民自身が歌舞伎などを上演していたもので、 全国的には江戸時代の末期に盛んに建てられ、大人気を博していたようです。  回転式の舞台や釣り天井などさまざまな仕掛けが工夫されており、 文化財的にも貴重なものとなっています。  北区淡河町(おうごちょう)北僧尾の北僧尾(きたそうお)農村歌舞伎舞台(県指定有形民俗文化財)は 1777年(安永6年)に建てられた日本最古の農村舞台であり、 また山田町の上谷上(かみたにがみ)の天満(てんまん)神社と 下谷上(しもたにがみ)の天彦根(あまつひこね)神社にも優れた農村舞台(上谷上:県指定有形民俗文化財、下谷上:国指定有形民俗文化財)があります。  最近では貴重な農村歌舞伎を保存しようと、地元の小学生などによって農村歌舞伎の公演が行われています。

・神戸事件・三宮事件・


生麦事件を御存知ですか? 実は神戸にも第二の生麦事件があったのです。教科書では習わなかったと思います。 神戸で最も賑やかな繁華街の一つに、元町があります。ここ元町のシンボルとも言えるのが、大丸百貨店神戸店だが、その北側正面に道路一本を隔てて三宮(さんのみや)神社という、都心に立地しながらも人影の少ないひっそりとした神社がある。映画「BLACK RAIN」でも撮影されたこの三宮神社付近において、慶応四年一月十一日(西暦:1868年2月4日、以下文中の日付は全て旧暦で統一する)に発生した事件これが、神戸事件である。神戸事件は別名、三宮事件とも呼ばれ、居留民や外交官などはこれを‘The Bizen Affairs’と呼ぶ。事件の詳細については、三宮神社に掲示されている『明治維新 神戸事件概要』という文章を拝借して説明しましょう。
〜明治維新 神戸事件概要〜
『神戸開港早々の明治元年正月十一日、尼崎へ出向を命ぜられた岡山備前藩の隊士の行列が、三宮神社前を通過するとき、神戸沖(メリケン波止場)に停泊中の外国軍艦の乗組員数名が隊列を横切った。大使の滝善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って相手を傷付けた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行 との間に砲火を交える騒ぎとなった。その結果、神戸の町は外国兵によって一時占領されてしまった。同月十五日東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は勅命で神戸へ来て、明治維新で天皇親政となったことをはじめて外国側に知らせ、同時にこの事件について交渉をした。結局滝善三郎は責任を一身に負い、外国人代表ら立会いの面前で切腹して問題は解決した。』

とありますが「明治元年」というのは実は慶応四年で「尼崎」というのが西宮だったりと各方面によっては説がばらばらなので学校の教科書にも載らなかったのであろう。慶応4年(1868)1月、江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、大阪を脱出するなどしていました。1月11日、新政府によって西宮の警備を命ぜられた備前(岡山)藩の兵隊が神戸の三宮神社前を行進していたとき、外国の水兵が隊列を横切ったのがきっかけで、藩兵が発砲し、英・仏・米の守備兵がこれに応戦しました。外国側は、大阪湾内の諸藩の艦船6隻をすべて抑留し、神戸にあった居留地(当時は造成中)を軍事的に占領しました。 発足したばかりの新政府にとっては、諸外国を敵に回しかねない緊急事態でしたが、備前藩士 瀧善三郎を事件の責任者として、外国士官立会いのもとに兵庫の永福寺(兵庫大仏のあるところ)で切腹することで落着した。  このとき、新政府の外国事務掛として神戸にいた伊藤博文は、外国人に死者がなかったことを論拠に、外国代表に瀧の助命を求めましたが、受け入れられなかった。 新政府は、事件の敏速な処理によって、最初の外交的危機を脱しただけでなく、かえって新政府が権力を持っていることや外国と友好関係を深めようとしていることを外国側に証明することになりました。
映画 『神戸事件』


私のホームページへ